みどころ

  • 作家一覧

花鳥画 花や鳥、虫などを題材とする花鳥画は、山水画や人物画と並ぶ東洋の伝統的な画題。宋や元の時代の中国で発達し、日本には室町時代ごろに本格的に伝わった。江戸時代には、中国人絵師・沈南蘋による新しい写生術が伝えられ、臨場感あふれる花鳥画が次々と生まれた。写実的な描写や鮮烈な色彩で知られる伊藤若冲のほか、南蘋派の絵師たちが活躍した。

川内倫子(1972年~ ) 滋賀県生まれ。風景や自然物を主なモティーフに、生と死のあわいや生命の循環をとらえる。広告会社の写真部、スタジオ勤務を経て独立。2001年に『うたたね』など3冊を同時に刊行し注目を集め、翌年、「写真界の芥川賞」と呼ばれる木村伊兵衛写真賞を受賞した。11年に写真集を5カ国で同時出版するなど、グローバルに活躍している。

花や鳥、虫などを題材にする花鳥画は、中国からもたらされた画題の一つ。写生や俳諧ブームとあいまって、江戸時代は特に盛んに描かれ、伊藤若冲や新しい写生画を追求する絵師たちが、はかない命、うつろいゆくものへの深い愛着と情感を花鳥画に込めた。同様の感覚は、さまざまな命の営みを、透明感にあふれた写真にとらえる川内倫子にも通じる。独特の光の効果をともなってカメラのフレームに切り取られたとき、花や木、動物、昆虫たちは、日常に裂け目のように現れた無常の感覚を突き付ける。若冲や市川其融、南蘋派の絵師らによる花鳥画と、川内のシリーズ〈AILA〉と〈Halo〉をあわせて展示する。


刀剣(日本刀) 古墳時代から奈良時代までの刀剣は反りのない直刀だったが、平安時代に反りのついた日本刀が現れた。最大の特長は刃文で、意識的に刃文を表した刀剣は世界でも日本刀のみとされる。太刀や短刀のほか、槍、薙刀など多くの種類があり、軟らかい鉄を芯として硬い鋼で包み鍛造された。刃文の名称には、「三本杉」「蛙子丁子」など自然からイメージされた言葉が多く当てられる。

鴻池朋子(1960年~) 秋田県生まれ。玩具や家具の企画デザインに携わったのち、1997年から、アニメーション、絵画、彫刻、手芸など様々なメディアを駆使したインスタレーションを発表している。近年は牛革を縫い合わせ絵を描いた〈皮緞帳〉や毛皮による地勢ジオラマなどを制作。芸術の始まりに立ちかえって、物を作る意味や人間を含めた自然について問い直している。

戦場における武器であった刀剣は、次第に権威の象徴、信仰、そして鑑賞の対象となり、神聖な美しさが求められるようになった。一方、文化人類学的な視座から自然との共生を思索してきた鴻池朋子は、人間の思惑のみに閉じるアートに違和感を持ち、近代社会が失った生命力を取り戻すような壮大なインスタレーションを展開し、生きること、創作することの根源的な意味を問うてきた。本展覧会では、動物の皮を縫い合わせた幅24mの鴻池の《皮緞帳》に、鎌倉から江戸期にかけての太刀や短刀を組み合わせる。神話的イメージが描かれた巨大緞帳と、聖俗両面の顔を持ち、時代を超えた煌めきで現代人をも魅了する刀剣の出会いが新たな物語を紡ぐ。


葛飾北斎(1760 ~ 1849年) 江戸・本所割下水(現在の墨田区)で生まれる。数え19歳で人気浮世絵師・勝川春章に入門し、その後独立。琳派、狩野派、西洋画など様々な画法を吸収し、70年もの間、浮世絵界に活躍した。生涯に30数回画名を変え、93回も転居した逸話も。膨大な作品を残し、その大胆な構図やコントラストの強い色彩は、印象派ら西欧の画家に大きな影響を与えた。

しりあがり寿(漫画家、1958年~) 静岡県生まれ、本名・望月寿城。キリンビールで広告宣伝などを担当するかたわら、漫画家として活動を始める。1985年に初の単行本『エレキな春』を発表。以来、ギャグ作品を中心に、震災や原発をテーマにしたアンソロジー『あの日からのマンガ』など社会派に至るまで様々な漫画を発表する一方、現代美術にも活動の幅を広げている。

自らを「画狂人」と号するほど画に没頭した、葛飾北斎。世界的に知られる〈冨嶽三十六景〉は46枚組の人気作品で、富士山を臨むさまざまな風景に、江戸の庶民の姿を描いた。北斎を敬愛するしりあがり寿が本展覧会に出品するのは、〈冨嶽三十六景〉全作品を現代風に解釈し、社会批評の視点やユーモアを加えたパロディ〈ちょっと可笑しなほぼ三十六景〉。例えば、《神奈川沖浪裏》では、波を太陽フレア、富士を地球に換骨奪胎。嵐の海の波間から富士を臨む北斎の視点を踏まえながら、宇宙旅行が可能になったときに地球がどう見えるか、という近未来的想像力を加えた。本展覧会では、北斎の版画とそのパロディのほか、新作映像「ゆるめ~しょん」もお目見えする。


仙厓義梵(1750 ~ 1837) 美濃国(現在の岐阜県)出身。11歳ごろに仏門に入り、40歳で、臨済宗の祖・栄西が創建した博多の聖福寺の住持に。同地で没した。62歳に隠棲したのち、本格的に墨絵を描き始めたとされる。作品はゆるさと同時に気品があり、生前から求める人が多かったという。現在は白隠とともに禅画の双璧として高く評価されている。

菅木志雄(1944年~) 岩手県生まれ。1960年代末に現れた美術動向「もの派」の理論をリードする一人。石や木などのモノを、それまであった場所から移し変えて新たな場所に置くことで、モノと空間、モノと人間の関係性などを問うてきた。1978年に日本代表作家としてヴェネチア・ビエンナーレに参加。海外でのもの派への関心の高まりを背景に、近年は欧米での個展も多い。

仙厓は、「厓画無法」(仙厓の絵に法は無い)を宣言し、禅の教えをわかりやすく、ユーモアを交え民衆に伝えた。仙厓が禅の悟りの境地をひとつの簡素な円に託したように、「もの派」の方法論を確立した菅木志雄も、その膨大な思考の軌跡を、今ここにあるもの、あるいは、そのもののあり様にシンプルに集約させている。インド哲学の〈空〉の思想に共鳴する菅は、石や木、アルミ、ワイヤーなど、身近な素材を、ほとんど手を加えることなく空間に置くことで、ものと人との在りように新たな存在の場を与えてきた。本展覧会で菅は、仙厓の《円相図》に応答し、《支空》(1985年)を再制作するほか、新作も準備している。


円空(1632 ~ 1695年) 美濃国(現在の岐阜県)出身。早くから仏門に入り、北は北海道、西は奈良まで巡り、山中の洞窟で過ごすこともしばしばだったと伝わる。飢饉や疫病に苦しむ民衆を慰めるため仏像を作り、晩年は、弥勒寺(岐阜県関市)に落ち着いた。大正から昭和初期の彫刻家・橋本平八が円空に心服し、自らの造形に反映させてから、注目を集めるようになった。

棚田康司(1968年~) 兵庫県生まれ。手足が長く細身、不安定に立つ少年少女像で注目される。日本古来の技法「一木造」を採用し、人間と神、自然、社会などの「あいだ」を制作のテーマに、繊細で危ういながらも力強さと神秘性を宿した作品を生み出してきた。近年は、母性をにじませた若い女性などにもモティーフを広げ、現代を代表する木彫作家の一人として活躍している。

円空は江戸時代、諸国を巡り約12万体の仏像を彫ったと伝わる。作風に変遷はあるが、丸太を断ち割り簡素な彫りで仕上げる特徴がある。微かな笑みを浮かべた仏像は庶民の心に寄り添い、人々を魅了してきた。素朴な表現のなかに木の生命力を感じさせる円空仏に関心を寄せてきた棚田康司は、円空同様、一本の木から像を彫り出し、継ぎ目のない木彫を制作。大人になる一歩手前の多感な少年少女の姿を、木に内在する命のゆらぎや振動に重ねて表現してきた。本展覧会では、棚田の旧作から新作までと、円空が木のエネルギーの発露として彫り上げた初期から晩年までの多彩な仏像や神像を展示する。


仏像(日光菩薩・月光菩薩) 日光菩薩は光で闇を消し、月光菩薩は慈しみの心で煩悩を滅すると言われる。一般的には、薬師如来の脇侍で、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩と三尊で並び、単体で信仰されることは少ない。西明寺の日光菩薩立像、月光菩薩立像は、寄木造、玉眼、全身を漆箔で覆われる。中国宋代の影響が見られる一方、古典的な作品の影響も指摘されている。

田根剛(1979年~) 東京都生まれ。日本やスウェーデンなどで建築を学ぶ。ロンドンの設計事務所などで働いたのち、2017年にパリに「Atelier Tsuyoshi Tane Architects」を設立。考古学的なリサーチと考察を積み重ねることで、場所の記憶を掘り起こし未来をつくる建築「Archaeology of the Future」をコンセプトに活躍する。

承和元(834)年開基の天台宗の古刹・西明寺(滋賀県甲良町)は、光差す池の中から薬師如来、日光菩薩、月光菩薩が現れたと伝わる。本展覧会では、美しく輝く日光菩薩と月光菩薩を展示する空間を、田根剛が創造する。田根は、軍用滑走路を生かしたエストニア国立博物館や、日本の新国立競技場のコンペで出した古墳スタジアム案などで知られ、国際的に注目を集める建築家。展覧会にあたって西明寺を訪れ、2体の像に「時間と光」「記憶」など長く取り組んできたテーマを見いだし、祈りと対話にふさわしい場を美術館に出現させることを目指す。


尾形乾山(1663 ~ 1743年) 京のトップブランドである呉服商「雁金屋」に生まれる。絵師・尾形光琳の実弟で、本名は深省(乾山は窯の名称)。野々村仁清の陶法を継ぎ、京都の鳴滝に開窯。乾山は窯のプロデューサー、兄光琳はデザイナーとして参画した。琳派の意匠を用いた華やかな陶器は、うつわに生き生きとした新しい命を吹き込み、日本のやきもの文化に革新をもたらした。

皆川明(1967年~) 東京都生まれ。文化服装学院を卒業後、1995年にブランド「ミナ」(2003年よりミナ ペルホネン)を設立。フィンランド語でミナは「私」、ペルホネンは「ちょうちょ」を意味する。手描きの図案をもとに、高い技術を持つ国内の繊維工場と協働でオリジナルの生地を制作。それをもとに、服やファッション雑貨のほか、インテリアなどもデザインする。

尾形乾山は、高級什器の世界で卓越した造形を展開し、花を切り取ったかたちなどを琳派の意匠で彩った。文人的な美意識も、うつわの中に表現した。皆川明は、主宰する「ミナ ペルホネン」による服や家具、器などを通じて、良質なデザインを身近なものとするライフスタイルを提案しつづけてきた。シンプルで華やか、温かみのあるデザインや、丸みを帯びた有機的な造形は、陶器を芸術にまで高めた乾山焼の世界を彷彿とさせる。自然に着想を得た模様、うつわやテキスタイルなどの内と外とで異なる意匠、平面と立体の感覚の交差など、両者の類似性を浮上させ、優れた想像力が生み出す魅力を提示する。


曾我蕭白(1730 ~ 81年) 京の商家に生まれ、20歳代末には絵師に。狩野派・曾我派・雲谷派の画法を学んだとされる。山水や花鳥、故事など伝統的な題材にデフォルメを加え、細密な着色画から粗放な水墨画まで、卓越した技を駆使した奇怪な画風で評判をよんだ。無頼な逸話も多い。代表作に《寒山拾得図》など。生前から評価は高く、幕末明治にはその人気ゆえ多数の贋作も作られた。

横尾忠則(1936年~) 兵庫県生まれ。神戸新聞社、日本デザインセンターを経て独立。ニューヨーク近代美術館で個展を開くなど、1960年代からグラフィックデザイナーとして国際的に活躍した。ピカソの個展に感銘を受け、1981年に「画家宣言」。以後絵画に転じ、「生と死」という人間の根源に向き合い、直観に支えられた圧倒的な筆力で制作を続ける。

曾我蕭白は、奇妙で時に醜悪なモティーフを水墨や濃彩で破天荒に描いたが、その大胆な描法、空間把握の基盤には高い画技があった。横尾忠則は、蕭白に魅了され、オマージュを捧げてきた。奇想の絵描きとして強烈な個性を放つ二人は、先達の作品から引用や借用をし、新たな表現に昇華させたことでも共通する。横尾は、古今東西の美術や自らの記憶などに由来する、あらゆるイメージが一体となった絵画で知られ、蕭白もまた、狩野派や曾我派、中国絵画などを吸収し自らの画風を打ち立てた。本展覧会では、蕭白には珍しい真景図(実在の景色)を含め、中国故事を描いた屛風など幅広く紹介する。蕭白に着想を得た横尾の新作も出品される。